武谷三男の「文化論」(1969年)の中に「うさぎとかめ」の続編といった感じの寓話があります。その一部を紹介します。
亀が狐を見つけてこの間は兎に勝ったのだから、又競走がしたくなり「向こうの小山のふもとまでどっちが先にかけ着くか競走しよう」といいました。狐もこれは面白いとひきうけました。
向こうの小山からは小川が流れていました。狐は亀に「亀さんあなたは泳げることに特徴がある。この小川を泳げばもっと早く着くよ」と申しましたので亀もそうだと思い、「ヨーイ、ドン」で早速泳ぎはじめました。亀はどんなに遅くても、勤勉に泳げば勝てると思い何時間もせっせと泳ぎました。ところが川の流れの速さより速くは泳げなかったので、もとのところを一生懸命に泳いでいました。亀は自分が一歩も進んでいないなど考えてもみませんでした。
狐は、兎が負けたのはいねむりをしたからだ、いねむりさえしなければ大丈夫と思い、亀が泳ぐのを見ていました。しかし、自分で歩いていくのは面倒くさいので、馬でも来ればうまく馬をだまして乗っていこうか、それとも飛行機に化けて飛んでいこうかなどと、ねころんで考えてばかりいました。
こうしてとうとう夕暮になってしまい、2匹とももとの所にいたことがわかり競走をやめてしまいました。さて一体どっちが怠けものでしょうか。
皆さんはどのように考えますか?「狐のほうが怠けものだ」「亀のほうがえらい」あるいは「亀は何も考えていない」等々、いろいろな考え方があるでしょう。誰かと議論してみるのも面白いと思います。「怠けもの」すなわち「何も行動しない、不活発」というイメージがある分、心情的には「亀は怠けものではない」と思う人が多いかもしれません。
この寓話の作者の考え方は、結論的に言うと「一方(亀)は行動の勤勉、思惟(深く考えること)の怠慢で、他方(狐)は思惟の勤勉、行動の怠慢」ということになります。
つまり、亀はよく行動したけれども、自分の行動が有効であるかどうかについてよく考えなかった、一方、狐はよく考えたけれども、あれこれ浮かんできたアイディアをひとつも実行しなかった、だから2匹とも夕暮までもとの場所にいた、ということになるのです。
この寓話にはいくつかのメッセージがあると思いますが、そのひとつは「よい結果を生み出すためには、よく考えて、よく行動することが大切」ということではないでしょうか。時には亀のように無心で頑張ることも必要でしょう。狐のように何もしないほうがいいこともあるでしょう。でもそれは、よく考えて「無心で頑張ること」を選んだり、「何もしないという行動」をすることで「よい結果」につながっていくのだと思います。
ところで、「よい結果」とは何でしょう。この寓話では「向こうの小山のふもとまで先にかけ着く」ことだったのですが、「夕暮までもとの所にいた」という「よくない結果」も、視点を変えれば亀と狐が自身を省みるチャンスとして「よい結果」になり得るのかもしれません。 段々ややこしくなってきました。こうなると兎に再登場してもらって「うさぎとかめときつね」の話でも考えたほうがよさそうですね。でも、どうなることやら...。
1994年4月 東横学園女子短期大学『花桐』第47号より.
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